いとおしさを募らせ

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いとおしさを募らせ

 文武両道の�武�を、右腕のために断念せざるを得なくなった吉之助は、悲壮な決意をしていた。
�これからは筆硯《ひつけん》をもって槍刀に代え、文を励んで精神を練り、もって士道を尽すの外なし�と。
 右腕に生涯消えぬキズを負った十三歳の少年は、闇に佇む母の姿に緊張と安堵がいっきに堰《せき》を切ったのであろう。
�弱虫《やつせんぼ》��糞無駄《くそむで》(意気地なし)�を忌む藩風であれば、少年たちは泣きべそをかいても肩をそびやかしているが、まだ母に甘えたい年齢である。
 十二歳の菊次郎も……。
 いとは、愛息を手放した島の女の心中を想い遣っていた。
 島の女は内地の土を踏むことは許されない。父の家に入った息子は、もはや彼女のものではなかった。
 いとはこれまで自分の立場からしか菊次郎をみてこなかったが、永訣を承知で息子を父にゆだねたのは、彼女が子供の将来を考えたからであろう。
 事実愛加那は孤独な晩年を送り、畑で倒れて村人に戸板で運ばれたが、蘇生することなく六十六年の生涯を閉じた。
 母は子の幸せを願い、子は�名高き父�の子ゆえに、わずか十二歳で遠い異国へ旅立とうとしている。
 父、庶兄に比べてなんと軟弱なわが子であろうか。
「母上……」
 いとが吉之助を、菊次郎を想い、情におぼれそうな気持をたて直したとき、寅太郎が低く呟いた。
「もう好き嫌いはいたしませぬ」
「そんなら、まず勇どんにあやまりなされ」
 頭を下げるわが子を見届けると、いとは自らも勇袈裟に礼を述べた。彼はいとが止めたにもかかわらず、寅太郎と行を共にしている。
 いとには勇袈裟の優しさが嬉しかった。
 子供たちの冷えきった椀を、すえに命じてあつい汁ととりかえさせたいとは、寅太郎が魚を口にすると、夜の惣菜にかえてやる。
 いとの|甘さ《ヽヽ》かも知れぬが、懲罰は七歳の子にこたえたはずである。嫌な魚を一口食べれば、食べ尽さずとも許してやりたい。
 いとは、長い根《こん》くらべをしたあとだけに、ひたすら咀嚼《そしやく》音をひびかせ、空腹を満たす子供たちにいじらしさといとおしさを募らせていた。
 吉之助が、天皇の西国巡幸に供奉《ぐぶ》して帰麑《きげい》したのは、四か月後の六月二十二日である。
 御召艦「竜驤《りゆうしよう》」と鳳輦《ほうれん》を乗りついでの巡幸に、陸軍からは慎吾(陸軍少輔)が、海軍からは川村純義(海軍少輔)が警衛を仰せつかった。
 巡幸は、廃藩置県に不満をもつ西国の諸侯・士族を慰撫するためで、鹿児島の反対派久光は、廃藩置県を知ると花火を打ちあげて鬱憤をはらした。
 それゆえ、吉之助の意図した�久光の融和、及び上京促進�は、行幸を仰いだにもかかわらず、効を奏さなかった。
 久光は徳大寺実則宮内卿に十四か条にわたる建白書を奉呈、吉之助・大久保を批判して徳大寺と論争しただけでなく、謀臣海江田信義を上京させて、建白の趣旨が生かされているかどうかをさぐらせる。
 帰麑《きげい》した翌日、慎吾と相談した吉之助は亡父吉兵衛の旧債を返済した。
 吉兵衛は、百両ずつ二度にわたって板垣与右衛門から借用していた。
 板垣は、薩摩郡水引村(川内市)の油問屋で、「川内川の水は干《ひ》上がっても、板垣家の金は減らぬ」といわれた富豪である。吉兵衛は、最初の百両を借りるとき、二十一歳の吉之助を伴った。
 吉兵衛の二度にわたる申し出を快く承知した板垣
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