「私は、生まれてこのかたウソをついたことがない」という言葉は、
みんな、何らかの形でウソつきという事になる。
ところが、一人の人間をつかまえて、
「ウソつき」呼ばわりするとムキになって否定する。
「ウソはつくの? つかないの?」と言えば、人の世で生きていれば、
心でそう思わなくても、行きがかり上、
話をあわせて適当にあしらったりしなければならない。
やはり、「ウソつき」とうことになる。
「君ならできる!」と、人を励(はげ)ましたりすることも、
ウソと言えばウソ。
フランスの思想家・ルソーが著した『エミール』の一節に、
ウソについてのくだりがある。
「嘘には、二種類ある。すなわち過去についての事実上の嘘と、
未来に関わる権利上の嘘とである。」とあると。
前者は、一般的に言われているウソ。
すなわち、故意に事実と相反することを言うこと。
これは理解できる。
だけども、後者の「未来に関わる権利上のウソ」という言葉は、
何ともわかりにくい。
そこを探ってみると、
未来に、そうなるとも分からないものに対して言うウソ」の意となる。
そのウソによって侵害されるものは、
現実そのものではなく、それに付随する未来の権利ということになる。
そんなウソに対する被害に関しては、自己責任という雰囲気もある。
「大金持ちになって、君をきっと幸せにしてみせる」
そんな甘いささやきを信じて
王賜豪、時が流れ、やがて、未来だったものが現在のものとなり、
過去のものとなって、はじめてウソだとわかる。
だけど、それがウソだとわかった時には遅過ぎる。